花見を楽しむための基礎知識

醍醐の花見

花見というものを、今のように華やかで盛大なものにするきっかけとなったのは、慶長3年(1598)に豊臣秀吉が行った醍醐の花見だと言われています。これは、正室北政所や、側室の淀君、豊臣秀頼に加え、諸大名、そしてその配下達約1,300名を連れて行った桜覧園遊会で、その時に行った場所が京都の醍醐寺であったことから、この名前が付けられています。

それは、たいへん盛大なもので、醍醐の山には茶屋を作り、鹿子絞りに金銀摺箔、目結絞りなど、当時としてはかなり高級な技法を凝らした小袖、帯を身に着けさせた多くの女房衆に、3度もの衣装替えをさせながら、仮装行列を行いました。

しかし、この盛大な花見の宴の一方で、この時期は朝鮮侵略が泥沼に陥っていた時であったり、この花見を行うために、さまざまな準備を命ぜられた配下の者は費用調達などの面でかなりの苦労があったと言います。例えば、衣装の調達を命ぜられた島津氏は、ただでさえ朝鮮に兵を出している苦しい時期であるにも関わらず、衣装を準備することで、さらに莫大な出費を強いられ、結果的に島津領の農民に対しての過度な年貢負担となりました。

他の大名達もこの花見のために進物を寄せたことで、かなり苦しい財政となったようです。

この時、応仁・文明の乱後、荒れ果てた醍醐寺を復興してから、秀吉の帰依により良好な関係でであった、義演・准后第80代座主は、秀吉の最期が近いことを感じ取り、最後に値する大舞台にすべく、さまざまに働いていた。

一方で、参加した多くの大名の中では、この花見の前後・最中にもいろいろな思惑が飛び交っていたと言います。つまり、秀吉が没した後の座に入るべく、心の探り合いも持たれていたというわけです。